再建された本丸の見取り図。直正は「表」と呼ばれる応接の場、藩主が日常を過ごす「内」、女性の居住空間「奥」に加え、行政機構に当たる「外」の機能も取り込んだ(公益財団法人鍋島報效会所蔵の「佐賀城御本丸差図(嘉永年間)」をもとに作成)

佐賀城二の丸跡に立つ鍋島直正像。右手は鯱の門=佐賀市城内

 その日、急を知らせる馬が何度も駆けた。

 天保6(1835)年5月11日未明、佐賀城の二の丸から火の手が上がった。原因は分からない。参拝で脊振山に赴いていた佐賀藩主鍋島直正は、居城が猛火に包まれていくさまを宿で知る。未曽有の被害をもたらした「子年(ねのとし)の大風」から7年。災いが再び降りかかった。

 午前3時ごろに出火し、南風にあおられて燃え広がった。鎮火したのは約5時間後。「一樹一草を残さず焼き尽くす勢いだった」。『鍋島直正公伝』がこう記すほどの火勢で、藩主の居間に当たる御座間( ござのま )などしか残らなかった。

 佐賀城は享保11(1726)年の火災で天守や本丸などが焼失した。二の丸と三の丸は後に再建されたが、その二の丸が再び焼け落ちた。馬で駆け戻った直正は、残った三の丸に重臣を集め、言葉を絞り出す。

 「非常格別の取り組みをして藩を興隆させることで、失火のおわびとすることを決意した。皆も必死の覚悟で奮闘してほしい」

 17歳の若さで藩主になって5年。藩政の実権は依然として父親の前藩主、斉直(なりなお)が握り、事前に相談した上で施策を進めざるを得ない状況が続いていた。

 火災の後に直正は、斉直への書状で宣言している。

 「困難に立ち向かうには臨機応変の対処が必要で、一々意見をうかがう余裕はありません。心外ですが、今後は決行した後に相談させていただきます」

 三の丸は、直正の暮らしと政治の舞台になった。手狭だったため、行政トップの「請役(うけやく)家老」が勤務する請役所などを、城の敷地内にある多久屋敷に移したが、三の丸とのやりとりで移動が多く、非効率で事務が滞った。結局、三の丸に仮役所を増設して対応した。

 「今に例えれば、知事公舎に行政棟が入り込んできたような状態」。佐賀城本丸歴史館企画学芸課長の浦川和也さん(51)はこう説明する。「役所に住んでいるようなもので、窮屈を極めた」と公伝にもあるが、新任の請役家老、鍋島安房らによる施策に、結果的に直正の目が行き届くようになる。「この経験が直正自身がじかに指導する形で、その後の改革を推進する一つの契機になった」と浦川さんはみている。

 再建することになった本丸の構造には、経験に裏打ちされた機能性が実際に持ち込まれている。「表」と呼ばれる応接の場、藩主が日常を過ごす「内」、女性の居住空間「奥」に加え、請役所をはじめとした行政機構に当たる「外」の機能も取り込んだ。築城時に余裕があった敷地が窮屈になったが、斉直の反対を押し切って計画を推し進めた。

 本丸再建に向けて佐賀藩は、藩の総収入の1割を超える2万両を幕府から借り受けた。重臣はこぞって資金や米を提供した。藩士も作業への従事を申し出て、火災から3年という短期間で完成させた。

 財政難が続いて実現しなかったものの、直正は天守の再建も目指していた。

 佐賀平野にある佐賀城は典型的な平城だった。城内を隠すため、土塁には木々が植えられていた。城から離れるほどに天守も見えにくくなったようだが、他の建物よりも高い天守はシンボル性を兼ね備えていたとみられる。

 佐賀城跡を発掘調査した佐賀市教育委員会の古賀章彦さん(50)は、再建を巡る直正の心境を推し量る。「戦乱の厳しい時期を生き抜いた藩祖直茂、初代藩主勝茂の精神に立ち返りたいと考えたのではないか」

 直正は城の再建を通じて実権を掌握していく。火災から6日後には人事を刷新。1カ月後には、全役人の3分の1に相当する約420人を削減する大胆な行財政改革に着手した。

■次回は幕府領で勃発した農民の一揆を取り上げます。

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