【1954年・第7回大会】県内の道路はまだ未舗装だった時代。伴走は三輪トラックや自転車だった=伊万里市二里村の川東橋

 今年で70回の節目を迎える東西松浦駅伝。2月5日の記念大会を前に、たすきをつないできたランナー(走人)たちの熱走の歴史を振り返る。(敬称略)

 終戦から2年が過ぎても、地域には敗戦による疲弊と虚脱感が漂い、若者たちは娯楽に飢えていた。「地域を元気づけるために駅伝が開けないか。青年団対抗にすれば盛り上がる」。地元の陸上競技関係者がそんな夢を描いた。

 発案の中心人物は有田町の吉富順一。大正期に活躍した長距離ランナーで、1924(大正13)年のパリ五輪の際は5000メートルの国内最終予選まで進んだ。戦後は県陸上競技協会理事を務め、「吉富走人」と名乗って有田に「吉富走人工房」を築窯。目をかけた若者を住み込ませ、作陶と長距離を指導した。

 吉富の一番弟子で、東西松浦駅伝40回連続出場を果たした松尾一(82)=有田町=は「ふだんは優しい人だったが、陸上に関しては厳しく、情熱的な一面があった。大会を通じて、若いランナーを育てたいという熱意が大会を実現させたのだと思う」と振り返る。

 吉富は、親友で戦前の明治神宮大会や満鉄勤務時代に極東選手権で活躍した中島保(伊万里市)のほか、陸上仲間の池田久雄(同)、塚本新(唐津市)らと地元の関係者を粘り強く説得し、大会を実現させた。当初から有田スタートの予定だったが、唐津勢から「汽車賃がかかるので無理」と注文がつき、1回目は「伊万里-唐津間青年団対抗駅伝競走」として5区間34キロで行われた。

 1948(昭和23)年4月11日午前10時15分、伊万里駅前を17チームが一斉スタート。シューズも、ランニングウエアもない時代。下着を縫い直したものを着て、草履や足袋、はだしで未舗装の砂利道に飛び出した。

 それから69年-。東西松浦駅伝は地域のランナーや関係者、ファンに支えられ続いてきた。吉富ら草創期のメンバーから大会運営を引き継いだ丸田利実(86)=唐津市=は「いくら田舎駅伝と言われようが、泥臭さが最大の魅力。郷土愛があったからこそ、ここまで続いたのだと思う」と歴史の重みをかみしめる。

 丸田ら大会に携わった関係者を中心に両市郡の陸上競技協会の組織づくりを進めたことが、地域の揺るぎない“駅伝文化”の形成につながった。「70回も続くローカル駅伝は全国でもほかにない。東西松浦駅伝から戦後の佐賀県陸上界は開けていった。まさに源流といえる」。丸田の言葉にプライドが見えた。

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