岩谷城主・庄山伊勢守源高公の墓所=有田町下本区

■岩谷城か、岩盤跡を確認

 NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」が視聴率14%前後で健闘している。中世の武将の生き様に熱い視線が注がれている。

 来年、築城800年を迎える松浦党有田氏居城の唐船城祉では、2月に地域の世話役さんたちが城祉内の雑木を伐採した。

 1921(大正10)年10月に建立された唐船城祉の石碑の周辺もきれいに整備され見通しが良くなった。さらに築城800年を機にベールに包まれていた唐船城の歴史にスポットが当てられている。

 松浦党は嵯峨天皇の皇子、左大臣・源融の八代孫の松浦新太郎久(後の松浦党の祖・源久公)が、1095(嘉保2)年、宇野御厨庄(長崎県松浦市今福)の検校(荘園事務の監査役)となり、東国から来て松浦庄、壱岐の島一帯まで支配した。この地は今も昔も国防の要衝で、日本の夜明け時には全国から集められた防人などが配置された。

 この地域の山の上には、所々烽火(とぶひ)が置かれ、外敵監視や通信連絡のために重要な役割を果たしていた。

 久公の孫にあたる有田三郎榮公が唐船城初代城主に就いた。二代城主究公の頃築城されたと伝えられている。七代勝公より十代盛公まで御厨の宗家が兼領していた。唐船城には、七つの支城があったとされ、先頃地域おこし団体「唐船城下・仕掛隊」の有志で下見が行われた。

 西南方面の防御を担っていた岩谷城は、北ノ川内の奥深く唐千田上ため池を見下ろす位置に大きな岩盤跡が確認された。真偽の程は中世のロマンとして語り継がれるだろう。(地域リポーター・藤泰治=有田町)

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