三ノ丸窯で焼かれた獅子の置物。日本的な獅子ではないが現実のライオンとも異なり、蘭書等の挿絵を参考にした可能性が考えられる

■西洋科学取り入れる

 現在武雄高校が建つ一帯には、かつて塚崎城(武雄城)がありました。第2代武雄領主後藤資茂が12世紀前半、武雄神社を遷座させて築いたとされますが、資料上で存在が確認できるのは14世紀後半の南北朝時代。元和元(1615)年の一国一城令以後は御屋敷のみが残されますが、三ノ丸の曲輪(くるわ)は御屋敷の敷地に取り込まれる形で継承され、江戸後期から幕末期には三ノ丸窯や製薬所が開設されました。

 三ノ丸窯は天保の初めごろ(1830年ごろ)、御庭焼の窯として造られたもので全長約14メートル、最大幅が5メートルの5段式の登り窯です。

 御庭焼には趣味として焼き物を作る窯と、調度を整えるために職人の生産組織をもった窯とがあり、江戸時代にはあらゆる階層に広がっていました。三ノ丸窯でも染付の花瓶、皿、獅子の置物などが焼かれ、今に伝えられています。

 三ノ丸窯の一番の特徴は、ここが西洋科学摂取に大いにいかされたことにあります。昭和36年の発掘調査の際にも、理化学実験用具である蘭引(らんびき)の一部が出土しました。他にも、ガラス製造所や大砲の鋳立場で用いるれんがなども、ここで焼かれたとされます。

 武雄鍋島家資料には、最新の理科学実験器具でありながら伝統的な山水の意匠を染め付けた蘭引、舶来の顕微鏡で観察した雪の結晶模様を染め付けた煎茶碗(わん)など、和と洋が同居した興味深い資料も残されています。 

(武雄市図書館・歴史資料館 一ノ瀬 明子)

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