鍋島茂義が隠居所として建築した御茶屋と敷地を示した絵図「御館図」。左下に「御製薬所」、中央上部に「三ノ宮」がある

 武雄領主は、1615年の一国一城令で塚崎城が廃城とされた後は、現在の武雄高校グラウンドにあった屋敷を居館としていました。

 この屋敷が1868年に焼失した後、居館としたのが、第28代領主鍋島茂義が嘉永年間に隠居所として建築した「御茶屋」で、「御館図」は、この御茶屋と敷地を示した絵図です。昭和40年代に武雄市に譲渡され、跡地に武雄市文化会館が建設されました。

 図中の建物のほとんどは解体されましたが、屋敷を囲んでいた白壁の一部、多くの資料が保管されていた土蔵の他、西側の泉水(園池)、南側の入口通路・冠木門、丘陵際の水路等に当時の姿を残しています。

 泉水の南側には、『御製薬所』と記された建物がみえます。武雄鍋島家資料には『御製薬方』の文字がある乳鉢・ランビキなども含まれ、蘭学や洋学の導入に努めた茂義やその子の茂昌の活動の一端を担った施設の一つであった可能性もあります。

 また、同じく武雄鍋島家資料である「御庭内御花壇其外植付帳」「御花市書付入」には、屋敷周りで栽培されていたと考えられる植物の種類や数が記され、その原産地はオーストラリア大陸を除く世界各地に及んでいます。

 さらに、「御花市書付入」には『三宮硝石岡ノ脇』との記載があり、もし、この『三宮』が図中の『三ノ宮』のことを差すのであれば、御茶屋敷地内で火薬の原料の一つである硝石も製造されていたことになります。

このエントリーをはてなブックマークに追加