峠越えの5区を力走する小野茂行(右)。35回大会では5人抜きの快走を演じた=1982年

 軽快にピッチを刻む玄海町体協のエース小野茂行は、一度も後ろを振り返らなかったが、追ってくる影を感じていた。厳木小学校を過ぎ、残りは数百メートルの直線。力強い足音が真後ろに迫る中、全力でラストスパートをかけた。だが、前半ゴール直前でかわされる。先に飛び込んだのは、有田町体協の原田和芳だった。

 69年の歴史の中で数多くの名勝負を生んだ東西松浦駅伝。中でも1979年、第32回大会5区(伊万里市大川町-厳木町)の小野と原田の一騎打ちは、今も語り草となっている。

 当時、小野は25歳。次々に区間新を塗り替え全盛期を迎えていた。一方、原田は実業団の新日鉄八幡から故郷にUターンした新人。22歳だった。

 あれから38年。小野は「いつやられるかと覚悟していたが、負けたくない意地も当然強かった」と振り返る。対する原田は「とにかく地元の期待に応えたくて、がむしゃらに前を追うだけだった」。2人はその後もライバルとして対決し、しのぎを削り合った。

 大会の見どころを語る時、エース区間の5区を挙げる関係者は多い。特に18~59回大会のコースは、伊万里市大川町から上り下りを繰り返し、最大の難所・浪瀬峠を越えて厳木町に至る12キロ超。「5区で計算できるエースがいないと勝利は難しい」と言われた。

 そんな中で各チームは選手育成に取り組み、歴代の“山の神”が誕生する。野崎英利(宮島醤油)、伊藤信勝(同)、碇俊彦(ラクダ産業)、岩永義次(西有田町体協)、山口善正(玄海町体協)、小西政徳(同)…。九州一周駅伝でも活躍した県を代表する名ランナーたちだ。

 区間に大幅な変更があったのは10年前だ。後半の交通混雑が問題となり、5区は峠の下りの途中の公民分館までに短縮。10キロを超える区間がなくなった。前回から杉木立で昼間でも薄暗い羊腸小径の旧道が、山を切り開いた直線路に変わって高低差も少なくなった。絶対的エースの存在がなくても戦略が立てやすく、上位に絡むことができるようになっている。

 選手確保に苦労するチームの中には、区間変更を好意的にとらえる意見もある。ただ、5区で名勝負を演じてきた小野は「5年後、10年後を考えれば、他の区間を変更してでも短縮すべきではなかったのでは」と懸念する。選手育成の熱をいかに保っていくか。これからの課題だ。(敬称略)

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