地上15㍍。そびえ立つ「幡随院長兵衛生誕地之碑」=唐津市相知町久保地区

◆松浦党の血受け継ぎ

 「お若(わけ)えの、お待ちなせえやし」「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」

 『幡随院長兵衛精進俎板(ばんずいいんちょうべえしょうじんまないた)』の「鈴ケ森」で、白井権八がお尋ね者となって江戸へ向かう途中、襲ってきた大勢の雲助を追い散らせていたところへ、侠客(きょうかく)幡随院長兵衛が通りかかり、その腕前に惚(ほ)れ、権八の世話を引き受けることを約束して別れるという筋の歌舞伎の名(めい)台詞(せりふ)である。

 幡随院長兵衛の生誕地は諸説あるが、大正末期、郷土史家の吉村茂三郎氏の研究により唐津市相知町久保に特定された。本名は塚本伊太郎。父は塚本伊織、上松浦党の日在城城主鶴田因幡守勝の家臣であった。

 上松浦党の領袖(りょうしゅう)で肥前国鬼子岳城(岸岳城)城主の波多三河守親(ちかし)が豊臣秀吉の勘気に触れ、常陸国筑波に配流されたことによって上松浦党は壊滅した。

 それゆえ伊太郎は父とともに江戸へ向かったが、下関で父は病没、つてを頼って神田山幡随院に身を寄せ、後に幡随院長兵衛と名乗った。その後、江戸の侠客の総元締めとなり、庶民の英雄であった彼の生きざまは江戸の華と呼ばれた。

 現在、相知町久保地区には「幡随院長兵衛生誕地之碑」がある。これは昭和5(1930)年に完成したもので、除幕式は昭和14(1939)年に行われた。碑石の高さは石垣を含めると地上15メートルもあり、題字は唐津藩主ゆかりの子爵、小笠原長生公の手になる。

 台座に刻まれた発起人一覧を見ると、アジア主義を掲げた玄洋社総帥の頭山満を筆頭に、唐津銀行の創立者大島小太郎らが名を連ねている。頭山に関しては、その豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格が幡随院長兵衛との共通項を見出したのかもしれない。

=略歴=

 たなか・まこと フリーの編集者で、民俗学、歴史を中心に編集・執筆活動を行う。1954年生まれ。唐津市桜馬場。

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