島義勇が「入北記」に記した絵図。現在の網走から知床半島を望み、ウナヘツ山(海別山)などを描いている(北海道大学附属図書館所蔵)

北海道神宮にある島義勇の銅像。蝦夷地を有力藩に分割領有させるうわさが広まる中、佐賀藩の藩命を受けて調査した=北海道札幌市

■分割領有狙い、しのぎ削る

 「樺太には金額を惜しまずに早く手を付けたい」

 安政4(1857)年に蝦夷地を調査した佐賀藩士島義勇(よしたけ)が残した旅日記に、こんな一節がある。当時は北蝦夷地とも呼ばれ、現在はサハリンとなっている樺太の西岸にロシア人が来航して小屋を建てた経緯や、石炭採掘を懸念する記述に、領土問題を巡る日ロ両国の緊迫感がにじむ。

 樺太を巡っては、嘉永6(1853)年にロシアのプチャーチンが長崎に来航した後、国境画定交渉が進められた。1855年に締結された日露和親条約で一応の決着をみたが、「日本とロシアの間で分割せず、これまでの慣例の通りにする」という規定は、日ロ双方の進出凍結とも国境画定の据え置きともとれる曖昧なものだった。

 そんな中、活発化するロシアの経済活動。日本側は対抗して、現在の北海道に当たる東西蝦夷地を段階的に開拓し、その北にある樺太を含めて影響力を強めることを重要課題と位置付けるようになる。

 諸藩の関心は蝦夷地に向かい、阿部正弘、堀田正睦(まさよし)ら5人の老中が家臣を現地に派遣して独自に調査した。さらに警備と開墾のため、幕府が蝦夷地を有力藩に分割領有させるといううわさも広まった。

 佐賀藩主鍋島直正は安政3(1856)年、島と犬塚与七郎の2人の藩士に調査を命じた。島は遊学先で水戸藩の尊王派藤田東湖に学び、蝦夷地に関心を向けるようになっていた。命を受けた翌年の3月に箱館(函館)から調べ始め、5月からは島が箱館奉行に同行する形で4カ月半をかけて東西蝦夷地と樺太を巡った。

 佐賀藩はなぜ蝦夷地に強い関心を示したのか。佐賀偉人伝『島義勇』を執筆した札幌市公文書館の榎本洋介さん(62)は「藩内の産物の新たな販売先として、箱館や蝦夷地を想定していた」とみる。

 近代化に向けても資金が必要だった佐賀藩にとって、1854年の日米和親条約で補給港として開港した箱館での交易は魅力的だった。島は重臣への書簡で、陶器などを箱館に運んで販売し、蝦夷地の海産物を佐賀で売るよう提言している。

 福岡藩とともに長崎警備を務めていた佐賀藩は、もともと対外政策に敏感だった。加えて海防に精通し、当時のロシア研究の第一人者ともいえる幕府の儒官古賀〓庵(とうあん)らの人材を輩出し、藩士に影響を与えていた。『新札幌市史』は佐賀藩について「北方の警備と開発は“藩論”として形成されていた」と指摘する。

※〓は人ベンに同

 榎本さんは分析する。「国が危機に直面しているという意識が幕末には広く共有されていた。それが佐幕や倒幕といった政治運動とは別の形で表れ、蝦夷地調査の動機付けになった」

 島は、箱館での交易の拠点になる蔵屋敷や分割地の候補地の申請を国元に促した。島の書状などによると、長州藩がいち早く蝦夷地の調査に着手し、中津藩や土佐藩、宇和島藩が続いていた。薩摩藩や肥後藩も調査を計画していると書き残している。

 犬塚は、調査を始めた年の5月には箱館を離れ、慌ただしく帰藩している。その理由について島は「内密の話があるため」とだけ書き残している。分割領有に備えて各藩がしのぎを削る状況を現地で実感したのだろう。書簡だけでは不安で、犬塚に直接説明させることで幕府への申請を急がせようとしていた。

 島は蝦夷地の地理や産物、アイヌの民俗などについても、旅日記に事細かに記している。

 <寒中之話はよほど烈(はげ)しき事なり>

 樺太の厳しい寒さを驚きを持って受け止める一方、「大根などの野菜がよく育つ」と肥沃(ひよく)な土地に感心している。海岸の地形や草木、アイヌの小屋など多くの写生図も残しており、任務への熱意が伝わってくる。

 幕府は最終的に、東北諸藩に蝦夷地を警備させ、領地を分け与える形でロシアの南下政策に対応した。有力藩による分割領有は実現せず、島の奮闘も報われなかったが、幕末に蝦夷地を踏査した各藩の人材は、明治期に入って北海道開拓に携わることになる。

■「北海道」の名付け親

 蝦夷地が「北海道」と命名されたのは明治2(1869)年。名付け親とされているのが、幕末から明治にかけて活躍した探検家松浦武四郎だ。6回にわたって蝦夷地を踏査し、佐賀藩士の調査にも協力した。

 松浦は伊勢国(現在の三重県)に生まれた。10代から全国を旅し、28歳で初めて蝦夷地に渡った。

 島義勇と犬塚与七郎には蝦夷地の開拓方針を提案し、有望地として釧路を挙げている。陶器やろうそくなど佐賀藩の産品を箱館で販売し、その利益を開拓資金に充てるようにも提言した。

 松浦は、明治期に入ると政府の一員になり、蝦夷地に代わる名称を発案した。提出した6案の中から「北加伊道」が採用され、最終的に北海道に決まった。

=年表=

1853(嘉永6) ロシアのプチャーチンが長崎に来航

1855      日露和親条約締結

1856(安政3) 佐賀藩主鍋島直正が島義勇らに蝦夷地調査を命じる

1857(安政4) 島らが蝦夷地を調査

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