龍造寺八幡宮境内にある楠神社。毎年5月には楠公祭が開かれている=佐賀市白山

楠神社に祭られている楠木正成、正行父子像=佐賀市白山(楠神社提供)

楠公祭の参列者名簿「義祭同盟連名帳」。枝吉平左右衛門(神陽)の名前が最初にある(龍造寺八幡宮所蔵)

■尊王掲げ、西洋文化も受容

 年に1度だけ開帳される木像が、佐賀市白山の龍造寺八幡宮の楠神社にある。江戸時代から伝わる楠木正成(まさしげ)、正行(まさつら)の父子像。正成は朝廷に尽くし、「忠臣の鑑(かがみ)」とされる南北朝時代の武将で、命日に近い5月21日に開かれた「楠公(なんこう)祭」には約50人が参列し、木像の前で遺徳をしのんだ。ここは幕末期、佐賀藩の有志が集った政治結社「義祭同盟」のよりどころだった。

 義祭同盟は嘉永3(1850)年に結成され、楠公祭を毎年開いて父子を顕彰した。中心になったのは、国学者で藩校弘道館の教諭を務めた枝吉神陽(しんよう)だった。

 正成への評価は『太平記』を通じて武士の間に広まっており、幕末期に顕彰の機運が高まった。江戸遊学から佐賀に戻った神陽が、父子像の存在を知ったことが同盟結成のきっかけになった。

 神陽は藩校の弘道館で頭角を現し、23歳で幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)に遊学した。儒学を勉強して佐賀では弘道館の教諭を務めながら、古典研究を通じて日本固有の文化を研究する国学も修めた。

 尊王論は当初、朝廷から統治を委任されたとして、幕府権力の正当性を説明するためにも用いられた。幕末に欧米列国の脅威が迫り、幕府の権威が揺らぎ始めると、幕府批判の意味合いをはらむようになる。朝廷をよりどころに国内の安定を目指す思想として各地で広がりを見せていく。神陽も、こうした動きに共鳴していったのかもしれない。

 楠公祭の参列者名簿「連名帳」によると、同盟の参加者は神陽の弟に当たる副島種臣や、同い年のいとこの島義勇に加え、江藤新平や大隈重信、大木喬任(たかとう)らの名前がある。解散した明治13(1880)年までに108人が参加している。

 楠公祭では顕彰にとどまらず、活発な議論が交わされた。『鍋島直正公伝』は神事後の宴会の様子をこう伝えている。「無礼講で格式を問わず、ただ楠公を慕う者が集まり、杯を交えて思いのままに縦横の論議を闘わせることにした」

 『公伝』は「神陽は家学の勤王論を主張し、気概ある青年書生がことごとく従った」とも記している。博学な神陽の下に若者が集った状況がうかがえるが、同盟が支持された理由はそれだけではなさそうだ。

 佐賀大学地域学歴史文化研究センター講師の三ツ松誠さん(35)は、弘道館の徹底した藩士教育に対する反動を映しているとみる。「保守的な教育に飽き足らず、枠に収まりきらない人物が神陽を慕って義祭同盟に参加し、尊王攘夷(じょうい)運動にも加わっていった」

 幕末の尊王派の存在は、藩内闘争につながるケースもある。福岡藩では藩論をまとめきれず、尊王派が処罰される事件も起きたが、佐賀藩では様相が異なる。行政職トップの請役(うけやく)家老、鍋島安房(あわ)ら藩の重役も同盟に名を連ねた。義祭同盟に詳しい龍造寺八幡宮の神職江頭慶宣(えとうよしのぶ)さん(50)は「神陽自身が藩の要職に就き、藩士を指導していた。他藩のように、勤王結社が藩の対立勢力になることはなかった」と指摘する。

 尊王派でありながら、西洋の文化や学問を積極的に受け入れた点も特徴の一つだ。他藩では西洋文化を毛嫌いする者も多かったが、交易窓口の長崎を警備していた佐賀藩には、受容する素地があった。

 さまざまな考え方や立場が佐賀藩に同居できた背景には、藩士の言説に対する藩主鍋島直正の寛容さも影響していたようだ。副島種臣は、神陽の尊王論に関し「暴論と言えるほどの激しい主張もあったが、閑叟(かんそう)公(直正)は決して罰しなかった」と後に語っている。

 同盟に参加し、年長者と交友関係を築いたことを糧にした若者は少なくない。大隈重信は「世に出て志を立てようとする手がかりだった」と回想している。

 同盟の中心人物の言動は政情が移ろうにつれ、際立つようになってくる。

■楠木正成の父子像

 楠神社に祭られている楠木正成、正行父子像は、佐賀藩士深江信渓(しんけい)が発願して制作し、2代藩主鍋島光茂の時代の寛文3(1663)年に完成した。正成が戦死した兵庫・湊川の戦場跡を訪れた信渓が、塚の上に木が植えられただけの状況を見て残念に思い、木像の制作を思い立ったという。

 木像は何度か場所を移し、幕末には梅林庵(現在の佐賀市本庄町の梅林寺)に安置されていた。木像を見て感激した枝吉神陽が義祭同盟を結成した際、信渓の子孫の深江俊助を祭主に迎えて楠公祭を開催した。この時は副島種臣や島義勇ら38人が参加している。

 神陽はその後、父子像を龍造寺八幡宮に移すように鍋島安房に進言し、安政3(1856)年に実現した。

=年表=

1844(天保15) 枝吉神陽が江戸に遊学、昌平黌で学ぶ

1849(嘉永 2) 神陽が遊学を終え、弘道館で教職に就く

1850(嘉永 3) 義祭同盟結成

1856(安政 3) 楠木正成、正行像が現在の楠神社に移される

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