地区体育委員の車のライトに照らされ、ロード練習に向かう大川町体協の選手=伊万里市大川町

 駅伝シーズンに入ると、大川町体協(伊万里市)の合同練習は週3回に増える。仕事を終えた選手たちが公民館に集合するのは午後7時半。辺りはもう真っ暗だ。

 練習には地区体育委員の顔もある。ロード練習の選手の後方から車のライトを照らす役割を買って出る。街灯のない田舎道でイノシシと鉢合わせすることもあり、選手たちの安全を地域ぐるみで支える。

 「思いが伝わるからこそ、しっかり走らなきゃいかんと、みんな感じるわけです」。監督の平山隆一(55)は熱く語る。

 大川町体協は、大会唯一の“皆勤賞”を誇る。青年団として初回を制し、創始期には3連覇を含む5度の優勝を果たした。村には約300人の若者がおり、出場選手を決める村内予選会を開いていたという。中にはヘルシンキ五輪(1952年)強化選手に選ばれた平山俊春ら実力者もいた。

 だが、黄金期は長くは続かなかった。日本が高度経済成長期に突き進む中で、農業が主産業の大川に生まれた若者たちは大都市に流出。過疎化の渦に巻き込まれ、勢いは失速した。

 交通渋滞で本大会が20チームに制限され、予選会が導入された31回大会以降、シード権の10位内を維持するのは難しく、翌年に初の予選落ち。41~64回大会での本大会出場は5度にとどまった。

 それでも予選にはぎりぎりでも人数をそろえて出続けた。旧町村単位から中学校区に区分を変えた体協もあり、大川も松浦町体協と一緒に「東陵中校区体協」で出場すれば予選突破はたやすかったが、「大川町」での連続出場にこだわった。それが伝統と誇りだった。

 そして、苦境の時代も失われなかった駅伝熱は、後に結実する。36年前に始めた町内駅伝大会が行政区単位で競技力を向上させ、2005年には東陵中が全国中学駅伝大会に出場。この時の主力選手が社会人として出場した67回大会で4位に入り、前回まで3年連続で入賞を続ける。

 住民も古豪復活を喜ぶ。選手が走っていると、お年寄りから「頑張って」と声が掛かる。「(連続入賞で)地域が元気になった。結果は大事だが、苦しい時代に踏ん張ったからこそ今がある」。監督の平山はそう実感する。

 東西松浦駅伝を通じて地域に根付いた絆。それは大川だけではない。各体協、各職域チームにそれぞれの歴史があり、絆がある。大会を実現した吉富走人ら各時代を刻んできた走人(ランナー)から未来の走人へ。たすきは受け継がれる。(敬称略)

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