事業の経過をしたためたノートに目を落とす城原川ダム対策委員会の眞島修会長=神埼市脊振町岩屋地区

 調査開始から46年がたつ城原川ダム計画。建設予定地の地元や下流域で住民の賛否が分かれ、紆余(うよ)曲折した国の巨大プロジェクトに翻弄(ほんろう)されてきた地域の軌跡をたどる。

■国の政策、二転三転

 「城原川ダム勉強会綴(つづり)」「現地立入調査関係綴」…。本棚に資料をとじたファイルがずらりと並ぶ。神埼市脊振町(旧脊振村)の山あいにある眞島修さん(79)宅。水没予定地区の住民団体代表になって約20年間、ノートには事細かに「事業記録」をつづった。ダム計画の足跡だ。

 「不明瞭であることは住民は不安でならない。専断的政治手法に怒りを覚える」。政権交代で計画凍結が浮上した2009年10月の一文。ページをめくると、苦悩の日々がよみがえった。1971年の調査開始から46年。「ダムに人生を振り回されたよ」

 深い木々に囲まれた城原川の渓谷にダムを造る計画が持ち上がったのは眞島さんが34歳の頃。自宅のある岩屋地区と隣の政所地区など約60戸が水没予定の網に掛けられた。「ダムができれば、いずれは立ち退く」。国策が静かな山里の暮らしに重くのしかかった。

 小学生の時に建てられた家は修理を重ね、米びつを置く小屋は改修して居間となり、雨漏りがしたり床が抜けたりした。「家はもうぼろぼろ」。それでも建て替えはできない。将来設計が描けない中、集落はどの家も補修を最小限に抑え、時間が止まったように山村の風景が残された。

 村役場を定年退職した直後の98年6月、地元の「城原川ダム対策委員会」の会長を任された。難解な用語や住民の不安が絡むダム。連日、村から佐賀市にある国の事務所や県庁に出向いて情報収集に奔走した。

 無駄な公共事業や環境破壊のイメージの広がりによってダムに厳しい視線が注がれ、城原川ダムも中止が何度も取りざたされた。計画は進まずに月日ばかりを重ね、国の判断も二転三転した。「このままでは蛇の生殺しだ」。水をためない「流水型ダム」の結論が示されたのは2005年。当初のダムの姿とは異なるものの、計画開始から34年がたっていた住民には「早期決着」しか選択肢はなかった。

 「来年あたり一筆地調査に入れそう」。国の担当者から朗報が届いた。補償交渉のめどが立ち、「国のいいなりになるまい」と対策の勉強会に本腰を入れようとした矢先だった。09年、「コンクリートから人へ」を訴えた民主党政権が誕生した。城原川ダムは検証の対象となり、再び宙ぶらり状態に。「何もかもゼロになった。奈落の底に突き落とされた」

 自公政権に戻ってからもダムの動きは鈍かった。県政のトップが交代した直後の15年3月、山口祥義知事が集落を訪れた。インフラ整備から取り残された地域を見て回り、「皆さまの長年の苦しみは行政の責任。第一に考えていきたい」。住民たちは拍手を送った。

 城原川ダムは1年余りの協議を経て継続が決まった。国は調査に関する協定を住民側に持ち掛けた。示された期間は「5年」。「補償交渉がまた遅れる。何を悠長なことを…」。眞島さんは切実な思いをぶつけた。今年1月、両者が結んだ協定書の期間は「3年」に短縮されていた。=浮沈の果てに=

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