若き日の玉岡誓恩師が修行した御井寺=久留米市御井町

■誓恩師復興に尽力

 幕末期から明治にかけて廃寺同様に荒れ果てていた大興善寺に19歳の青年僧、玉岡誓恩師が1871(明治4)年に入山すると、天井も床もなく、箸も茶わんもなかった大興善寺の本堂から、朝夕は勤行の鐘の音が園部の谷にもようやく聞こえるようになった。誓恩師は勤行や托鉢(たくはつ)、そして村人との交流を通して名刹(めいさつ)復興に人生をかける。

 大興善寺第95世住職、玉岡誓恩師は肥前国高来郡多比良村(現・長崎県雲仙市国見町)で何代も続く医者の家に生まれた。

 家業は長兄が継ぎ、生まれつき丈夫な体に恵まれなかった末弟の誓恩師は、幼少期を島原の和光院で過ごし、長じて久留米の御井寺に移り、甘井僧正のもとで仏道修行に励んだ。

 大興善寺への入山を仲介したのは天台宗の尼寺で、子授り寺「太田ん観音さん」として地元の人に慕われている太田山安生寺(鳥栖市田代本町)の太田素〓(王ヘンに光)禅尼だった。

 藩政期、現在の基山町全域と鳥栖市の北東部は、表高(おもてだか)1万3000石余の対馬藩・宗家の飛び地、対馬藩田代(たじろ)領であった。

 田代町の天台宗昌元寺は、浄土宗西清寺と並び領内では最高の寺格を誇り、宗家歴代藩主の位牌を奉安する由緒ある寺であった。(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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