逃散一揆に向けて農民たちの会合が開かれた天山神社を案内する郷土史家の中里紀元さん=唐津市厳木町広瀬

天保9年の逃散一揆の経緯などについて記録が残る「秀島家文書」(唐津市所蔵)

■農民抵抗封建社会に亀裂

 洪水や冷害で米の不作が続き、全国的に政情が不安定になった幕末の天保年間。「天保の飢饉(ききん)」では各地で一揆や打ち壊しが頻発し、大阪では「大塩平八郎の乱」も起きた。唐津の幕府領でも農民が苦境に陥り、領内を管理する唐津藩や庄屋ら支配層に対する不満がくすぶった。

 この幕府領は43村からなり、現在の唐津市厳木町や相知町、伊万里市の一部に広がっていた。元は唐津藩の領地の一角だったが、藩主の水野忠邦が幕府に返上し、文政元(1818)年に正式に引き渡された。自らの出世や国替えの工作のために返上したという説が地元には伝わる。

 幕府領になると、農民の負担は増した。他の幕府領並みに増額された庄屋の給料や出張旅費、役人の接待費用などが年貢に上積みされた。庄屋が年貢米を中抜きする不正も横行した。

 農民は唐津藩に窮状を訴えたものの響かず、幕府の役人への直訴を画策する。

 天保9(1838)年4月、機会は巡ってくる。幕府の命で各藩を巡回し、情報を収集する役人「巡見使」が、伊万里の大川野宿を訪れる。厳木町の庄屋の記録「秀島家文書」などによると、巡見使は農民の代表を集めて告げている。

 <何事によらず願いの筋があるならば、早速願い出よ>

 巡見使がこうした対応をとるのは異例中の異例だった。郷土史家の中里紀元さん(85)=唐津市=は「全国的に一揆が広がっており、暴徒化を恐れたのではないか」と推測する。

 農民は請願書を提出した。要望は大きく3点で、年貢の徴収は農民側の合意を得て実施することや、余分な経費の徴収をやめること、不正をした庄屋を代えることを求めている。

 唐津では明和8(1771)年の「虹の松原一揆」など、農民による抵抗運動が何度か起きているが、天保の幕領での出来事は様相が異なった。「従来は年貢の引き下げなど『経済闘争』に終始していたけれど、年貢の徴収手続きの変更や庄屋の更迭要求まで踏み込み、『政治闘争』になっている」。中里さんはこう説明し、「私塾の普及などで農民の教養が高まり、支配者層に疑問を持つ下地になっていた」とみる。

 請願書の提出で状況が改善するかと思われたが、幕府も唐津藩も動かない。業を煮やした農民は神社などで会合を重ね、実力行使を決定する。巡見使との接見から2カ月後の6月、集団で藩境を越え、佐賀藩の小侍番所(多久市)に訴えた。領地の外に逃げて耕作を放棄する「逃散(ちょうさん)一揆」と呼ばれる抵抗運動だ。

 参加者は約1800人。逃げ込まれた側の佐賀藩の役人は農民に帰村を促す一方、唐津藩を説得する。佐賀藩が立ち会い、要求をのむように約定書を交わしたものの、事態は進展しない。9月、12月…。農民は粘り強く逃散を繰り返した。

 農民の立場は12月、急変する。同情的だった佐賀藩の役人が武器を持ち、逃げてくる農民を追い払った。幕府に「農民を甘やかし、騒ぎを大きくしている」と責められていた。行き場を失った1200人を超す農民は藩境の金毘羅(こんぴら)岳にこもった。

 山ごもりは2カ月に及んだ。唐津藩は天保10(1839)年2月28日を総攻撃の日と決め、2千人以上の軍勢で取り囲む。逃げ場を失った農民は次々と身柄を押さえられ、総勢537人が捕らえられた。

 混乱の後、幕府が吟味して最終的に農民の要求はほぼ認められた。一方で、指導者の数人は、住んでいた地域への立ち入りを禁じられる「追放」など重い処罰を受けた。対立した庄屋にも家財没収などの厳しい処分が下されている。死罪になった者はいなかった。

 農民が支配者層にあらがい、結果として要求を通した一揆。中里さんは歴史の転換点の一つとみる。「武士が力で支配した社会から、民衆運動が政治を動かす近代社会へと変わる予兆を感じさせる」。200年以上続いた江戸の封建社会に亀裂が入りつつあった。

 ■次回は幕末の唐津藩の状況や、藩主の小笠原長国に焦点を当てる。

このエントリーをはてなブックマークに追加